2011.12.15 |
人生の旅〜ロンドン、セントパンクラス・ルネッサンスホテル
ロンドンからパリへ向かうユーロスターの出発地として数年前から営業を開始したセントパンクラス駅。その駅と一体となって改築&修復工事が進められていたセントパンクラス・ルネッサンスホテルが今年の5月からOPENしていたので、滞在してみました。
外観ももちろん素晴らしいのですが、今回特に感激したのは、そのホスピタリティの徹底したシステムでした。
イギリスのほとんどの高級ホテルは、”マナーハウスのような”サービスをうたい文句にしているところが多いです。アメリカのホテルとの大きな違いは、イギリスの高級といわれるホテルはそのほとんどが、規模が小さいことと、この”マナーハウスのような”サービス〜が強調されることです。
しかし、ここでは今まで経験したことのない、本当に心地良い方法を採用しておりました。
今回は、イギリス在住のご夫妻とこちらのホテルでお食事をする約束をしておりました。
彼らとはホテルのロビーで待ち合わせ、そのままホテルのサロンへとご案内しました。
ロビーと駅はドア一つで行き来できますが、その先のサロンへ入るにはルームキーが必要です。
そして、そのサロンがとても居心地がよいのです。
ワインから紅茶などあらゆる飲み物が揃い、スコーンやちょっとした軽食、スィーツまで揃っています。 とても居心地のよい空間〜しかも、さりげなくサービススタッフがこちらの希望に応えてくれます。
お招きしたイギリス人もとても満足されていました。
お食事はホテルのダイニングでいただきましたが、デザートもそこそこに、再びサロンに戻って紅茶を頂こうということになりました。
まるで、自分の家へお招きしているような、そんな寛ぎの時間を持つことができました。
しかも、こちらはすべて宿泊代に含まれているのです。
良質のサービスをしっかりと提供し、その代価は堂々と頂くという、心憎いほどの自信に満ちたあり方に感激させられました。
サービスというのはまさに一期一会の、その時一度きりのものとも言えますが、人と人の人間関係が最も端的に現れる時とも思われます。
身分制度のはっきりしていた階級社会において最も発展したのがこのサービスですが、個人の人権が当たり前になっている現代社会では、また別の姿を現しています。
『お互いを尊重すべし』の心がどうしても必要です。
お互いが卑屈にならず、尊大にならず、それぞれが相手を尊重するとともに、自分自身に対しても尊敬をもって行動することが、とても大事なのです。
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2011.11.8 |
  
パリの小さな美術館〜ジャックマーレ&アンドレ美術館
先月はパリに滞在していたのですが、今回はジャックマーレ&アンドレ美術館へ立ち寄ってみました。何度か訪れてはいますが、今回はたまたまイタリアの画家フラ・アンジェリコの特別展が開催されているというので、行ってみることにしました。
いつもはそれほど混雑することもなく、パリの美術館のなかではゆっくりと鑑賞できるところですが、今回は、入口から行列が出来ていて特別展のフラ・アンジェリコの人気が覗われました。
6月にフィレンツェに行った時にサンマルコ修道院のフラ・アンジェリコを早朝の人気のない時間に訪れ、しばらくその静謐な時間を楽しんできたばかりだったので再び見る事が出来てとても幸せな再会でした。
サンマルコ修道院の受胎告知はとても良く知られた絵ですが、今回の展示は豪華な額装の小品が多い企画で、サンマルコ修道院にある静かな雰囲気とはかなり異なる傾向のものでした。
今月は悲しい分かれの月でした。
十数年前からの友人が旅立ちました。
運命鑑定を始めて間もないころから、会うたびに人の運勢の見方や、運命の受け止め方、など直截的な鋭い質問を投げかけて来るタイプの感性の鋭い人でした。
彼がある時、真顔で自分の運勢を見て欲しいというので、鑑定をしました。
その時の目前の問題である仕事のことや、従業員の事などをあれこれ話した後、遠い将来のこととして最大の変動期が59歳にやってくること、それは彼の人生の中ではとても大きな変動期であることを告げました。
しかし、その時はまだ40歳代だったのであまり気にも留めていない様子でした。
時はたち、59歳が近くなるにつれて、時折不安げな質問をなげかけたり、今のままでよいのか・・・?との問いかけがありましたが、何も変わらない日々が続いていました。
59歳になって、目の不調を訴えて病院へ行ったりしていましたが、何とかこの程度で過ぎ去るのか・・・。
ところが、その後、手術の困難な病気を発症し、一時はよくなったものの、帰らぬ人となってしまいました。
変動期というのは、運勢が変化する時でもありますが、本当は自分自身が変化する必要がある時と言えます。
仕事の仕方や、生き方まで含めた根本的な変化を自分自身から起こしていくべき時なのです。
特に、急激な変動期というのは、まさに人生の津波が押し寄せてきている時です。
そういう時は、今している仕事も、楽しみも、計画も、全てを捨てて、とにかく生き延びる事に全力を注ぐべき時なのです。
このような変動期は人生のなかで、そう度々起こることではありません。もちろん、一度も想定されてない人もあります。
彼の場合も、29歳と59歳の2回のみでした。
そのため、なかなか難しい判断を迫られることとなります。
しかし、このように人生に訪れる試練は、神からの贈り物とも言えます。
私達の命そのものが、偶然の産物では無く、神からの贈り物と私は思います。
何故、与えられたのかを知ることは出来ませんが、与えられたものは何時かは返さなければなりません。
私達に今与えられている現在の時間を、どのように使うのも自由・・・に思えますが、この一瞬一瞬をどのように生きるかがいつも問われているのです。どのように生きるか、誰と生きるか、何を仕事とするか、今をどのように過ごすか、全てが選択です。選択こそが生きる事の本質です。
病気や、事故や、大きなトラブル、これらの試練に出合うのはある意味必然です。人生の流れは、いつもせき止められ、変化し、そして流れ続け、私達に試練を与え続けるのです。
そして、試練こそが生きていることの意味を知るチャンスであり、神からの祝福なのです。
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2011.10.15 |
人生の転機
仕事とはいえ、年に何度も おとずれるロンドン〜ここは世界でも最も大きなアンティークマーケットの一つと言われるポートベロー。イギリス国内はもちろん、ヨーロッパ各国やアメリカからたくさんの人々がやってきます。最近は中国人も増えました。ここも、世界の荒波を避けることは出来ないようで、リーマンショックや金融危機のあおりを受けて取引は減少し、閉鎖されるアーケードや移転する店舗が増えてここ数年で随分と様変わりしてきました。
いつも、旅先にいるような人生ですが、最初の転機は今から数十年前、大学生になって間もない頃でした。
どうも眼の調子が良くないので、メガネを新調しようと街中の眼科に行きました。
人のよさそうなかなり年配の先生でしたが、私の眼を顕微鏡で見ていた先生は突然「ウーン」と一声、そのあと一番年配の看護婦さんを呼んで、「これは珍しいから君も見ておきなさい」
と席を立ちました。
そしてうんうん言いながら歩き回っていましたが、一通り皆が見終わると、ようやく説明が始まりました。
「これは円錐角膜症と言って二十万人にひとりくらい発症する珍しい病気です。右目はかなり進んでいるので間もなく見えなくなります。左目もやがては見えなくなるでしょう。」
先生は、すぐに大学病院への紹介状を書いてくれました。
たまたま、自分の在籍する大学だったので、数日後には大学病院へ紹介状をもって行きました。
そのとき、出会ったのがO先生でした。
とても気さくで楽しい先生でしたが、私の眼を顕微鏡で覗くと、たくさんの写真をとり、ようやく診察を終えると「これは移植しかないな〜」とひとこと。
「先生、治りますか?」
「やってみなければ分からないだろう?」
「手術はいつ出来ますか?」
「眼を提供するという意思表示をしている方がお亡くなりになって、君にその順番が回ってきた時だ。」
「それは、いつ頃になりますか?」
「この病院だけでも何年も順番を待っている患者さんがたくさんいる。いつになるかは私にも分からない。」
とにかく、順番待ちの名簿に自分の名前を入れてもらい手術の心得とか入院の必要品リストをいただいて下宿に帰りました。
何か現実とは思えないような数日間でした。
自分の眼が間もなく見えなくなる。受験勉強から解放されてようやく自分の好きな本が読める。自分の好きな勉強が出来る。人生の入り口にようやく辿りつきこれから人生が始まるというのに〜。
何カ月待つか、何年待つか分からないと話していたので、半分諦めかけていましたが、それから一月も経たないある日の午後、下宿の管理人さんにO先生から電話が掛かってきました。
「今からすぐ病院に来れる?来れないなら次の人に連絡するから返事は今すぐ!」
「すぐに行きます。」
「30分以内に診察室で待っているから。」
手術は、眼の移送に時間がかかり、少し待たされましたが、到着とともにすぐに始まりました。
手術後の一週間ほどは、固い眼帯をして絶対安静という状態が続きました。
この時の記憶は曖昧ですが、初めて眼帯をはずされ、O先生が手をかざして「指は見えるか?」と聞かれたのは覚えています。
ひと月程で退院し、大学に復帰しましたが、本はもちろん、近くも遠くも良く見えず、講義をただ聴くだけという生活がしばらく続きました。
その後、少しずつ回復し、何とか無事に大学を卒業し、就職しました。
今、思い出しても、将来の見えない不安と、どうして自分がこんなことにという挫折感、そして、どこか風の吹き抜けるような訳の分からない解放感とがないまぜになった心の感触が蘇ってきます。
ただ、この時に心の底から感じたこと〜自分の将来を少しでも見たい、本当に自分の未来はもう無いのか?、自分の人生はこれまでなのか?自分の人生を見たい!自分の運命を知りたい!
この想いが人生の大きな転機となったように思います。
当時のノートに記された詩です。
「角膜を 授けし人を 思いつつ 眼を切り開く 医師の手見ゆ」
「両の眼を かたき覆いに とざされて いつ果てるともなき 夜をすごしつ」
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2011.9.3 |
人生の旅
先月の下旬から北海道に滞在しているイギリスの知人ご夫妻を羊蹄山の麓にあるレストランへお連れしました。今年のヴァカンスは北海道に行きたい。ということで所々ご案内し、滞在最終日のランチをご一緒しました。
台風の影響なのか雨模様の天気でしたが、食事を終えて外に出ると、羊蹄山が薄っすらと姿を現し麓から湧き上がる雲がまるで龍が天に向かって飛び立つように見えました。強い風が手前から吹き抜けちょっと幻想的でした。
いつもお世話になっている大事な人たちを心からおもてなしをするというのはなかなかむずかしいものですね。
相手の方に喜んで頂くためには、まず相手の方の求めるものをしっかりとお聞きするところから始まります。とは言えイギリス人であっても遠慮もあり全てを話してくれるわけではありません。
大体のご希望をお聞きして、あとは日頃のお付き合いの中で適当に想像しながら北海道の旅をセットしました。
結局は自分達が一番楽しめる場所やリラックスできるところをご案内することが多くなってしまいました。
でも改めて感じた事は、北海道は本当に美しい!そして本当に美味しい! ということでした。
そして、刻々と変わる山の姿と同じように、私達夫婦が彼らとここで食事を共にするこの瞬間は人生の中で再び訪れる事は2度とないのだと実感しました。
人生の旅は先へ先へと進むばかりで、過去に戻ることはないのです。
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2011.6.7 |
人生の津波(その2)
今から 十数年前、爽やかに晴れた北海道らしい初夏の早朝のことです。
高等専門学校に通い始めた次男に向かって言いました。
「しっかり勉強しろよ。お母さんのことよろしく。」
そのあと、彼は学校に、私は家を出ました。
これが、私の人生の津波の始まりでした。
自業自得とはいえ、家業の仕事を失い、住むところも無くなり、家族も失い、人生の拠り所をすべて失ってしまいました。始めのうち離婚を渋っていた妻が言いだした離婚の条件は「全ての財産とこどもの親権」でした。
まるで避難民のような生活が始まりました。予想していたとはいえ、本当に辛い日々が続きました。
なにより辛かったのは、それまで仕事を通して築いてきた信頼がすべて覆されたことでした。人生が無に帰してしまったようです。しかし、現実は次々と襲ってきます。何一つ不動産など持たない自分に固定資産税の督促がきたり、個人的な保証人を引き受けていたために呼び出しがきたり、まるで嵐に吹き飛ばされる枯れ葉のようでした。
半年ほど避難民の生活を続けた後、今の仕事を始めましたが、心に決めたことは以前の仕事上の人脈には一切関わりをもたないこと、また自分名義のものは一切もたないことでした。
それから十数年がたちました。
先週、招かれて息子夫婦とお嫁さんのご両親様&妹さんと御食事をいただきました。
そのあと、息子が用意してくれた箱根のホテルへと向かいました。霧の箱根を案内してもらい一緒にお茶を頂き美術館をたずねました。本当に夢のような時間でした。
3年前に息子が結婚する時、彼から何度も出席して欲しいとの電話をもらいながら、結局出席出来ませんでした。
まだ、元気だった彼の母親の邪魔をしてはいけないと考えたからです。その元妻が、一昨年脳梗塞で倒れたので、離婚の時の別れの最後の言葉〜「今までありがとう。どちらでも残った元気な方が子供達を支えていこう」
を想い出しておりました。
自然災害の津波は、ある日突然襲ってきます。その規模も襲ってくる日時もわかりません。
人生の津波はある程度の予測は可能です。自分の命式に現れている津波〜40歳台に仕事も家族も失い、しかもそのままの人生を続けようとしたら命をも失う可能性が大きい〜は以前から頭では理解しておりました。
しかし、現実は遥かに理解を超えるものでした。
何が待っているか分からない 暗く荒れた道を、ただひたすらに歩き続ける日々でした。
運命とは大きな波のようなものです。巨大な波に逆らうことなどとても出来ません。人間の力など本当に弱いものです。逆らったり、どこかにしがみついてもただ溺れるだけです。でも、手を離し、自然に身をまかせてしまえばどこかに運ばれそこでまた生きていける。今はそう感じ、生かされていることに感謝しています。
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2011.6.1 |
 
人生の津波(その1)
先日、思い立って奄美に行ってきました。
生まれて初めての奄美大島です。爽やかな風と南国特有のエメラルドブルーの海に懐かしさを感じました。
南の島には縁のない私達が、一体どうして奄美まで出かけたのか?
今回の旅行の目的はある人に会うためでした。 実は、奄美には私達にとってとても大事な人が住んでいるのです。最近の私達の合言葉は「会いたい人に会いたい時に会いに行く!」です。
今から十数年前のことです。結婚して札幌に住んでいた彼女はまだ二十代で、明るくとても元気な方でした。
当時、テーブルセティングやお煎茶を教えていた家内の生徒さんとして、時々顔を見せておりました。
その頃始めて間もない新参者占い師の私に鑑定をして欲しいと言ってきました。早速、観命表を作った私はその表を見て言葉を失いました。
その観命表には間もなく襲ってくる大きな津波のような人生が現れておりました。家族を失い、住むところを失い、仕事も失い、自分の大事な身体さえ危険にさらされる・・・・。本当に辛く悲しい出来事が続いて起こる、しかもあまり残された時間はない、という内容でした。
私の心は悲しみで押しつぶされそうでしたが、とにかくありのままを出来るだけ感情を交えないようにお話しました。彼女の反応は、意外とあっけらかんとしたものでした。私は自分の鑑定に自信があったわけではなく、かえって外れた方がホット出来るだろう等と考えておりました。
それからほどなくして、彼女が少し歩くと足が痛いと話していましたが、間もなく膝が痛くて歩けなくなり、ご実家のある奄美へ帰ったと人伝に聞きました。
その後、長い空白の時間が流れ、数年前から年賀状が届くようになり、寝たきりの生活から復活を果たしたこと、車の免許取得に挑戦しついに獲得したこと、などなどメールでのやりとりが始まり、これは会いに行かねば!となったのです。
奄美空港に着き到着ロビーに降りて行くと、出口の付近に立っている彼女を発見! しっかりと立ち、しかもあちこち歩いています。もう車椅子ではない!
その後、ご自分の車で奄美を案内してくれました。
そして、海の見えるカフェ―で何時間も何時間も話をしました。
彼女の観命表に現れていた困難を乗り越える勇気と、持って生まれた強い生きる力を感じました。
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